尊光寺は、約430年前に石山本願寺(現在の大阪城本丸)と織田信長の11年間の戦い『石山合戦』で名を馳せた、
本願寺家老職、軍師『鈴木飛騨守重幸(鈴木孫一 通称:雑賀孫一)』が創建した寺と伝えられています。
11年に亘る石山合戦は、石山本願寺と織田信長が和睦し、終結しました。
その後、鈴木孫一(通称:雑賀孫一)は、この地に隠棲し、長い戦いで、お念仏を護るため亡くなった真宗門徒を始め、
多くの人の菩提を弔うと共に、『お念仏の灯』を絶やさぬように僧『釋了玄』となり、お堂を建てたのが始まりです。
当寺は、僧侶、歌人、国学者、勤皇の志士である『伴林光平(鈴木六郎光平)』の誕生地でも
あります。
伴林光平は約200年前、尊光寺第13代住職の次男として生まれ、幼くして両親と死別した為、やむなく本願寺派の寺へ養子に入りました。その後僧侶として佛典を究め、23歳で西本願寺の因明学教授となりました。30歳の頃、実兄の尊光寺第14代住職に従い尊光寺の新堂【現在の本堂】建立に尽力しました。
又、歌人、国学者として、27歳の頃より、一流の漢学国学者より古典や歌学を習得し、多数の著書や、河内・大和に多くの門弟(約150人)を持つようになりました。45歳の時に『紀州国学所総裁』に推され、これを受諾し、49歳の時には、大和『中宮寺』で尼門跡(皇女)の歌会で講評申し上げるまでになりました。
光平は『勤皇の志士』として、51歳の時、明治維新に先駆けて、尊皇派『天誅組』の大和義挙に、衣をなげすてて加わりましたが、事破れて捕らえられ、京都六角の獄にて斬罪されました。獄中で書いた『南山踏雲録』は、天誅組の記録のみでなく、明治維新史研究の上で、貴重な文献と高く評価されています。
作家の司馬遼太郎氏は、『南山踏雲録』について、著書『街道をゆく12十津川街道』の中で、こう述べています。
行文がすずやかな上に、文中に挿まれた歌がよく、このため天誅組事変という ― 行動の発起が軽挙で、途中、絶望的な状況に追いこまれてゆくという意味で ― 陰惨な印象をうけがちなこの政治的暴動が、明るいといえるほどに浄化されている。この一挙の記録方としてもし伴林光平がいなかったら、事変についての後世の印象はずいぶん違ったものになっていたのではないかと思えるほどである。
後の明治政府は、その功績を讃え『従四位』を追贈し、靖国神社に合祀しました。
昭和17年に『伴林光平大人顕彰碑』が建立されました。
北向きじぞう(尊光寺) 林村の麻野さんが旅の帰り道橋をわたっていると、お地蔵さんと出会う。このお地蔵さんは、長いこと橋で行きかう人に役立ってきたが、違う所に祀ってもらって村人の願い事をかなえてあげたいと言った。麻野さんはお地蔵さんを背中に背負って林の村に連れてきた。そこに小さなお堂を建て北向きに祀った。 すると村人の願いごとをよう聞き届けてくれ、人から人へ村から村へと伝わり、「有り難い北向きのお地蔵さん」と言ってお参りする人があとを絶たないくらいになったという。 (引用 中野千代著「藤井寺むかしばなし-やっつけられたたかたか坊主」 平成22年復刻、藤井寺市教育委員会) |